早めに帰宅した息子と二人で娘を迎えに行く途中、大きな木の下に雛鳥がいました。
ふわふわの毛を膨らまして眠ろうとしているように見えましたが、少し様子がおかしく、あぁ巣から落ちてしまったのかもなと、すぐに察しました。
迎えの時間が迫っていたので、また3人で戻ろうと、ひとまずそこを後にしました。

娘に雛鳥の話をしながら、急いで同じ場所に駆けつけると、雛鳥はもう息が絶えそうで…
息子が両手で雛鳥をすくいあげ、家で手当てしてどうにかできないかと聞いてきました。
クチバシから出血していて、他に外傷はありませんでしたが、おそらく内臓が損傷している。この息の感じでは、もう施すことは何もないだろうと思いました。
残念だけど助けてあげられないことを子供達に告げ、家で看取ろうか提案したら、子供達が「この子のお母さんが帰ってきた時に、どこにもいないってなっちゃう」と言うので
ならば、落ちたであろう木の根元の方へ置いて、葉っぱか何かで少しでも暖を取れるようにしてあげようと、大きくて柔らかい葉っぱを集め始めました。
息子がそっと雛鳥を置くと、もう姿勢を保つ力もなく、横たわり半分目を閉じていました。呼吸だけが荒かった。そして暖かかった。

子供達は大きな葉っぱを何枚も体に被せ、風で飛ばないよう木の枝も添えて、指先で雛鳥の小さな頭を撫で続けていました。
今とても苦しく、怖いかもしれないけど、少しでも安心してほしいと、誰もが同じ気持ちでいた気がします。
「もうこれでいいんだよ」と、まだ何かしたがっている子供達をなだめて、家へ帰りました。
子供達が、温もりのある生き物が死にゆく様子を、目の当たりにするのは初めてかもしれない。そう思いながら歩いていたら、突然雨がパラパラ降ってきました。
空は青く、日差しがある中で、雨の雫がとても光っていて。
今、空に昇ったかなぁと、なんだかすごく納得した。

うちに着くと、堰を切ったように子供達が泣き出しました。
私は以前、上海に住んでいたことがあり、当時は人が道端で鳥を捌いたりしていたので、生き物の生き死にと、実際に自分が送っている食生活(ベジタリアンではないので)について、深く掘り下げたことがあります。自分なりの落とし所を見つけてきたので、悲しい気持ちがあっても冷静でした。
それでも、経験則のない彼らが、沸き起こる感情をどこにも収められない様子が、かけがえのないものに思えた。
自然に生きる動物や命の理について話すよりも、今彼らが抱く感情を大切にしたくて、何も話さず、涙が止まるまで側にいました。

数時間後、夫が帰ってくると、雛鳥がいた場所へ行ってみようと3人で出掛けて行きました。
10分くらいしてガチャっとドアが開くと、娘が大泣きしながら「食べられてた〜」と抱きついてきました。息子は目を真っ赤にして、泣くのを我慢していた。
ハードボイルドだなぁと、苦笑い😅
だけど、それくらいがちょうどいい。
綺麗事だけの世界では、本当の強さも優しさも得られませんしね。
雛鳥を食べた動物が、また明日も生きれること
そこにある木が、来年また葉をつけ実を実らすこと
死が他の生き物を生かし、私たちもそうして生きている。
世界が回る中に、自分も含めた全てがしっかり組み込まれていることについて、その夜はじっくり話しました。

でもやっぱり、まだ小さな子供。特に9歳の娘は
死んじゃった、悲しい😭
食べれらてた!ぎゃー😱
そんな感じで、深い言葉はあまり慰めになっていなそうな雰囲気…
まぁ背伸びしたって仕方ない。素直が一番👍
この先の人生で、また生死を目の当たりにする機会はきっと訪れるでしょう。
これから彼らが様々な経験をして、自分なりの考え、ものの捉え方ができていく様子を、母としていつも同じ距離感と温度で見守っていたいと、切に願う夜でした。


コメント
わたしもかなし〜です
でもわたしもそのひなどりがてんえとのぼるのをねがっています。♥️
LEAさん
ありがとう♡